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樋口の[思いつきブログ]

AH blog vol.005:信じる力

私は疑り深い性格です。

皆さんは人を信じやすい性格ですか?
それとも疑り深い性格ですか?

今の世の中では、人を信じる人より疑う人のほうが多いのではないでしょうか?

なぜかと言えば、
人は誰かを信じて得られた幸福よりも、
誰かを信じて裏切られた不幸のほうが、
より深く脳に刻まれる仕組みになっているからと推測します。

皆さんも一度は誰かを期待して、裏切られた経験があるのではないでしょうか。

また、一昔前と比べてインターネットで調べれば大抵の情報が得られるこの世の中では、情報が氾濫していて多くの人を惑わしていることも一因だと私は考えます。

そしてかく言う自分も、他人を疑いながら生きてきました。

なぜこんな話をするのかというと、
人は一人では生きていけない社会的動物であり、この人を信じるか疑うかが人を常に惑わせている主因だと私は考えるからです。

では、なぜ人は誰かに裏切られたという感情を持つのでしょうか?

そんな疑問に対してある興味深い記事がありましたので、要約して載せますと、

『誰かを信じる』という言葉に関して『それがどういう意味なんだろう』と考えたときに、

対象の誰か自身を信じているのではなくて、『その“対象の誰か”に対して抱いていた「理想の人物像」みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じることがある。

だからこそ人は『裏切られた』とか『期待していたのに』と言うけれど、別にそれは『その人が裏切った』というわけではなく、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』と思います。

しかし、その揺るがない自分の軸を持つことは凄く難しいです。

だからこそ人は『信じる』と口に出すことで不安な自分をごまかして、成功した自分や理想の人物像などにすがろうとするのではないかと思います。

こんな感じのコメントでした。

とても深い!

「信じる」とは誰かに自分の理想像を押し付ける行為だと。

これも一理ありますが、
私は信じることについては2つの考え方があるのではないかと考えます。

1つは、

上記のように誰かに裏切られたらマイナスの感情を持つ可能性がある「期待を信じる行為」。

もう一つは、

誰かの成長を願い、他者への献身から損得抜きにして行う「無条件の信じる行為」であると。

そして人の幸福や人の成長には、
後者にあげた「無条件の信じる行為」がとても大事だと私は考えます。

もちろん、この信じる行為を実行するのはとても大変ですし、おそらくは意識的に何かの策を講じないと前者の“信じる”に無意識になってしまうでしょう。

そこで私が考えたのが、
ポジティブに「人は私に興味がない」と考える方法です。

少し寂しい考えにも聞こえますが、
なぜこのように考えるかというと、
期待とは他者によく思われたい(悪く思われたくない)

という感情から生まれたもので、
それを減らさなければ、
正しく人に期待できないと私は考えたからです。

もし他にも良い方法があれば教えていただきたいです!

ちなみに敢えて「人は私に興味がない」と考えてまで、なぜ人を信じたいのかといえば、それは「人の成長」を私は見たいからです。

人はきっといい意味で変わります。

そして妥協や猜疑心を減らし、自分の信念を曲げないで生きていってほしい。

私は、『常に人は平等で「50%50%の精神」を持って生きていくべきだ』という信念を持っています。

その実は、シンプルに人から何かしてもらったら同じ分を必ず返すという原則や、人に優劣つけないという気持ちを大事にしていて

例えば奥さんが専業主婦で子育てをしていることと旦那さんが仕事を頑張っていることは同じ重みがあるとか

サラリーマン時代は社長と社員の仕事の違いは役割の違いであってそこに価値の違いはない、という考えのもと生きてきました。

そんな「人の成長を見たい」という理想を体現するためにこの会社を創業して10年間走り続けてきました。

そしてこれからもこの理想を具現化するために、同じ思いを持った仲間と前に進んでいきます。

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